燃え尽き症候群気味の伊藤です。大会直前、期間中は結構気持ち強めでやってたのでその反動が来てしまいました。おかげで普通に体調崩して寝込んでました。
大会振り返りとか正直いろいろ書きたいことはあるのですが、また改めてどっかのタイミングで書ければと思います(書かないやつ)。
今はあまり良い感情ではないですが、頑張っていきましょう。
燃え尽き症候群気味の伊藤です。大会直前、期間中は結構気持ち強めでやってたのでその反動が来てしまいました。おかげで普通に体調崩して寝込んでました。
大会振り返りとか正直いろいろ書きたいことはあるのですが、また改めてどっかのタイミングで書ければと思います(書かないやつ)。
今はあまり良い感情ではないですが、頑張っていきましょう。
榊原です。
一年半だけでしたが、楽しく貴重な経験をさせてもらい、また温かいメンバーと活動させてもらいありがとうございました。
辞める理由はモチベーションが不安定なことです。最低限機能するものを作れても、さらに早いマシン作りのための努力を注ぎ続けられるかというと自信がありませんでした。チームには感謝しかないからこそ、強い千葉大を目指すうえで今の自分はふさわしくないのではと思いました。
一年半の大学生活の中で楽しかったことは?と聞かれたらほとんどフォーミュラ絡みの思い出が出てきます。なのに結果として辞めることになりチーム運営に迷惑をかけてしまったことは本当に申し訳なく思っています。すみませんでした。
温かく受け入れてくれた先輩方、同級生、一年生には感謝しかありません。
これまでありがとうございました。
こんにちは戸張です。
自分はまだB2ですが、フォーミュラプロジェクトを辞めることにしました。OBヅラして引退日記的なものを書くのはいかがなものかとも思いましたが、個人的には頭の中をこねくり回して出した決断だったので勝手に書かせて頂きます。
私は入学前、大学に入ったら自動車部に入りたいなと思っていました。元々レーシングカーやF1には興味が無く、乗用車やスポーツカーが好きだったからです。しかし、大学に入り、ガクエフの存在を知り、CUFPがそこそこ好成績を残していることを知り、フォーミュラのほうがちゃんとしてるじゃん!と思い入部しました。そこからは、大学生活をフォーミュラに捧げるつもりでいました。フォーミュラをやるからには全ツッパしようと思ってました。FM関東もやりたいし、ドライバーもやりたいし、なんならチームリーダーも?、、。やれるもん全部やってやろうと思ってました。ただ、そう思っていた矢先、それを妨げるものが幾つか出てきました。大学が遠い、睡眠時間欲しい、運動したい、コスト嫌だ。自分は埼玉の実家から大学まで通っていて、ドアtoドアで片道2時間かかります。こうなると、ちょっとガレージ行くとか午前だけ作業とか急遽ガレージ行くとか出来なくなります。そしたら一人暮らしすればいいじゃ無いかと。そうすればいくつかの問題は解決すると思います。ただ、さらにそれを妨げたものがあります。自分の車です。一人暮らししながら車を維持しながらフォーミュラをやる事は金銭面から不可能でした。奨学金か何かで借金でもしない限り。元々は乗用車が好きな自分からして、自分の車を捨てることも不可能でした。睡眠時間が欲しいとか、コストが嫌だとか、そういうのは苦しみながら頑張った後に喜びが待ってる物だとは思います。でもそこを頑張れるほどの勝ちへの執着はありませんでした。
こんな状況だと、全ツッパしようにも出来ず、中途半端にフォーミュラをやることになってしまいます。このままだと結果的に自分のやりたかった事は一つもできずに時だけが過ぎてしまいます。二兎を追う者は一兎をも得ず。何かを削るしか無い。フォーミュラを削れば他の物は手に入る。そんなこんなで辞める決断をしました。
この文脈だとフォーミュラで何もやりたいことができなかったみたいに聞こえますが、そんな事はありません。排気担当になれたことはとても良かったです。自分は、自分の好きなものを音で判断する癖があるようなのですが、そこで音を支配する大きな要因である排気を担当できて楽しかったです。
何故か覚えているんですが、某S先輩に、「排気なんて空気出すだけだろ、空気出ればなんでもいいだろ」って言われた時は悲しかったですね。爆音の愛車に乗っているのは誰ですかと。その爆音は排気管のおかげですよと。
お話が逸れましたが、以上が辞める決断をした理由です。理由が全て自己中ですいません。ご迷惑をおかけします。こんな長文日記書いたのは初めてですね。読んでくれる人はいるのでしょうか。
短い間でしたが、ありがとうございました。
大会エンデュランスで後半を担当させていただいた、B4の大川です。大会から1週間が経ちました。帰校した翌日から内定者研修に追われ続けていたのも終わり、やっと一息つくことができたので、ここで今年度大会のエンデュランスを振り返っていきたいと思います。とてつもない長文になってしまったことを先にお詫び申し上げます。
まずは出走順を決める伊藤のオートクロス。外から見ていると、試走会の時ほどのキレはないなと思いましたが、それでも一発目から好タイムが出ていました。期待が高まった二発目、完璧に決めてくれました。本人なりには不満があるとは思いますが、まわりから期待され続けたあの環境の中、良く決め切ってくれたと思います。結果としてICVクラス4位となり、最終日午後の走行枠を獲得しました。
走行前日の夜。期待してはいたけど、そこまでとは聞いてないよ。そんな風に思いながらホテルで過ごしていました。まさか自分なんかが大阪大学と並走してしまうなんて。伊藤が二人いればな、なんて思ったりもしていました。そんな弱気なメンタルが良くなかったのでしょうか、初日から続いていた咳が止まらなくなりました。文字通りに止まらなくなり、何度もトイレに駆け込んで吐きかけていました。最後に時計を見た時は2:30でした。22:00頃には横になっていたので、4時間近く咳き込み続けていたわけですね。自分でもこれはもう無理なんじゃないか、と諦めかけた時、やっと咳が治まり寝ることができました。あのとき相部屋だった黒澤には大変迷惑をおかけしました。
当日朝、起床。天気予報を見て、嫌な予感はしていました。ただ、まあ大丈夫だろうと、楽観的な気持ちで会場に向かいました。当日の午前中はなるべく会話を避け、一人で心を静めつつ、エアロの最終点検をしていました。今年は擦っていないなだとか、リアウィング吹き飛ばないでくれよ、とか。そんなこんなで直前。もう走行中に雨が降るのはほぼ確実でした。それでもメンタル管理が上手くできていたのか、比較的落ち着いていたと思います。伊藤が一人目の走行となりましたが、見ていてとても気持ちの良い走りでした。早く乗せてくれよ、そう思いながら見守っていました。
そして問題なく10周を終え、ドライバ―チェンジが始まりました。ベルトを締め終わった時、雨が降り出しました。無線で雨を愚痴ったのを覚えています。そして1周目の3コーナー。速攻でスピン。周りから見ているメンバー、特に上級生とドライバー陣は、またかよ、と思ったでしょう。ただ、自分では状況を理解できていませんでした。ブレーキを踏んだ瞬間、車が吹き飛んでいきました。今までで初めて経験した感覚でした。思えば、自分で思っていたよりも路面が濡れ始めていたのでしょう。もっと慎重に入るべきでした。またやってしまったと、自分で自分が嫌になりました。しかし、地獄はそこからでした。その後の2周は慎重に走行しましたが、3周目あたりから異変を感じ始めました。これ、前が見えないな、と。さすがに雨量がおかしいのではないかと。見えないとは誇張でもなんでもなく、文字通り見えなくて、パイロン3個しか見えていない状況でした。そこからは記憶と感覚を頼りに走っていました。一応補足をしておくと、曇っていたわけではなく、ただバイザーに当たる雨量が多く前が見えなくなっていました。コース真ん中を走ると迷子になるので、常に片側のパイロンに寄せてガイドにしながら走りました。車は少しの入力で吹っ飛びそうになります。極限まで気を使いながら走りました。それでも奥の段差でスピンをしてしまいましたが、それどころではありませんでした。正直、赤旗出せよと思いながら、なんとか走っていました。走っていた、というより、転がしていた、という表現の方が正しいかもしれません。あまりの視界不良でポストすら見えず、もう棄権しようかな、と思ったそのとき。「チェッカー」という無線が聞こえました。あの時の横溝の声が、救世主でした。旗なんて見えていなかったので。半分感覚でドライバーチェンジエリアに入りました。コースウォークのありがたみを感じた瞬間でもありました。そしてメンバーから状況を聞かされ、タイヤ交換という形になりました。
仕切り直しとなった後半6周。相変わらずフラッグが見えるか怪しい程度の視界不良ではありましたが、レインタイヤを履いたことで車の挙動は良くなりました。レインタイヤでも速さの片鱗を感じ、天気をうらみました。なんで最後の走行がこんな天気なんだ、晴れならもっとやれたのに、など。そこからは終始後ろの大阪大学のペースを気にする展開でした。雨になった瞬間、抜かれるのは時間の問題だとわかっていました。ドライバ―のレベルが違うので。毎周、自身と大阪大学のタイムを確認していました。そうこうしているうちにあっという間に後半が終了し、また無線の助けもあり完走&帰還することができました。
走り終えた後。本当は帰ってこられて嬉しいはずでしたが、申し訳なさでいっぱいでした。1周目の余計なスピン。雨でのペースの無さ。やっぱり伊藤が二人いれば、もっと上位に行けたのにな、等々。昨年から、もっと言えば伊藤が入ってきたその日から、ずっと感じていたドライバ―のレベルの違いが浮き彫りになりました。よくやったよ、と言われても賞賛とは程遠い励ましの言葉にしか聞こえず、自分で自分が嫌になりました。その後は雷が鳴っていることもあり、足早に退散しました。ピットに戻ってからも、晴れだったら京都工芸繊維大学を喰えただとか、そういう話を聞くたびに落ち込んでいました。完走したはずなのに、去年と同じ申し訳なさを感じていました。それと同時に、もうこのマシンを運転する機会がないこと、もっと言えば整備する機会すらないこと。それを実感し、申し訳なさと混じり合って感情がぐちゃぐちゃになっていました。時間は飛びますが、写真撮影のために車両を並べていた時、一人でマシンの中にいた時はその感情がこみあげてきて泣きそうでした。
その後はあまり記憶がありません。ただ、ドライバースーツを脱ぎたくなかったことだけは覚えています。これを脱いでしまうと、ドライバーとしての最後の何かも失ってしまい、本当に全てが終わってしまう気がして。表彰式も、アクセラレーション日本記録の快挙を喜んで見守れるようなメンタルではなく、一人後ろで眺めていました。千葉大に帰っても、最後の解散のあいさつの前に、翌日以降の研修に備えるという理由で一人逃げるように帰ってしまいました。
今は、やっと少し時間をとることができ、気持ちを整理し始めることができています。今、この日記を書く時間も数時間にわたっています。
メンバーのみんなへ。こんな私を受け入れてくれて、本当にありがとうございました。歴代最高のマシンには全くふさわしくないドライバーでしたが、一人前のように扱ってくれて、とても楽しかったです。活動自体も、自分の全力をささげることができるとても楽しい活動でした。これで引退とは言え、まだ半年は大学にいるので、たまにお邪魔させてください。
最後に。最近、ガレージの空気が良くなく、チームが分散してしまうような雰囲気を感じることが多いです。ただ、千葉大の長所は人間だと思うので、マシンばかり見ずにそこにも気を配りつつ、これからも躍進を続けてくれればと思います。
以上。
お久しぶりです石田です。
先日大会が終わりましたね。今年は運営代と言うこともあり、とても思い入れのある大会でした。
最も印象に残ったのはやはりエンデュランスです。想定もしていなかった豪雨の中でのタイヤ交換は今まで体験したことがない非常に切迫した中でのものとなりましたが、これぞ学Fの大会という感じで楽しかったです。
もうちょっといけたよなと思うところはありましたが、この気持ちは来年晴らしたいです。
さて、今週からCF26に突入しました。今のところワクワクより不安の方が大きいです。CF25までは運営代とはいえ、先輩方におんぶにだっこで大会まで行き着けたので、そんな先輩方が全員居なくなってしまったと思うと心が落ち着きません。とはいえ、嘆いていても何も進まないので猪突猛進するのみです。
現在は、去年と今年のレギュレーションを読み比べながらか変更点に悶え苦しんでいます。無事に大会で出走できることを祈っていてください。
上手くさぼることも大切です。
千葉大最長身ドライバー、機械車検で毎年車検員のジャッジに不満を吐く人、何かよく知らんがずっといるでかい人と言えばわかってもらえる方がいるかもしれません。(うちのブログは身内以外の界隈の方にも見られているらしいので軽く自己紹介)
大会お疲れ様でした。
1年間全力で取り組んできた最後に結果を残すことが出来た達成感と、全力で取り組んできたものを失った喪失感で何も手につかない日々が続いています。
自分は幼少期から車が好きで、高校生の頃には大学に入ったら自動車部か学生フォーミュラに入りたいと考えていました。これらが出来るのかというのも大学選びの一つの軸でした。一方で、入試のあたりからコロナが騒がれ始め、入学後は対面授業がない空白の平日昼間を利用して免許を速攻で取り、実家の車のODOメーターをぶん回す日々を送っていました。そんな中で、たしか2020年9月頃、ようやくサークル活動の勧誘が始まり、とりあえず自動車部と学生フォーミュラの拠点を一人で遠目に見に行きました。そこで、ただなんとなく学生フォーミュラの方が精力的に活動しているような気がしたので、こっちに入りました。
入部後の初めての作業のことは今でも覚えています。小さい穴がいくつか開いているでかい鉄の板とドリルを渡され、穴を拡張してほしいと頼まれました。こんなでかい板を車のどこに使うのか、なぜ初めから大きいドリルで開けないのか、「?」だらけでモヤモヤしながら手を動かしていました。
それからはフォーミュラしかやってないです。授業ごとに欠席回数をメモし、上限いっぱいまで調整しながら常に何かを作っていました。浪人してまで大学に入ったにもかかわらず、大学院に進んでもサークル活動にほうけることをなぜ親は許してくれたのでしょうか。本当に感謝しかありません。
学生フォーミュラを始めた理由も、続けている理由も人それぞれだと思います。ただ一つ自分から伝えたいことは一つ一つの決断に理由を持ち、下した決断には責任を持とうということです。2022年はコロナ禍かつメインの代が三学年下がるという厳しいチーム体制の中で、2021年から大きく変えることはなく現状維持を頑張ろうという決断をし、皆で必死に維持にしがみついた結果が4位でした。また、2023年、2024年とターボ化に挑戦するという決断をし、本気で取り組んだからこそ、エンジンやシミュレーションについての知識、ECUについてのノウハウの蓄積、チームリソースの再確認ができ、今年の結果があるのだと思っています。(リーダー、メンバーには迷惑をかけました。ごめんなさい。)
個人個人が、チームが、何かを決めるときには理由を持って、そして決めたことには責任を持って取り組みましょう。自分は今年、チーム目標である総合9位と、個人的に決めたエンデュランスの絶対完走とスキッドパッドでの賞金を目標に活動してきました。(その中で心無い発言が多々ありました。ごめんなさい。)
目標があったから、毎日精力的に生きてました。今の自分にはそれがありません。とりあえずは次の目標を探しながら惰性の毎日を過ごします。来週には留学!留学!TOEIC800点!とか言ってる別人格が誕生してるかもしれませんね。ひとまず英語の勉強として2026ルールを確認…ってアレ(?)
それでは、チームの今後に期待しています。5年間ありがとうございました。
こんばんは竹内です
突然ですが大学生ってすごいですね。この活動を始めてずっと思っていたのですが、この間大会に行ってよりこの気持ちが強くなりました。自らの手であんなに大きなものを作るだけでも大変なのにそれにミスなくびっしりと物を配置し、すごいスピードで動くようにし、そのうえでコンマ何秒を争っている。今の自分にはすごい以外の言葉がありません。
こういった技術的なことだけではなく人としても学ぶことも多いですね。日常でいろいろ言いあったりしている裏では助け合おうと頑張ってる。どんな時でも必ず楽しさから来る笑顔が表れる。この活動の一番の原動力であり一番大切なことであり一番の魅力を教えてくれた気がしました。
今年の車に自分がかかわった部分はほとんどありませんが大会での千葉大の走りに夢中になっている自分がいました。アクセラ日本一、エンデュランスのファイナル6、1年目の自分には貴重な経験になりました。先輩方ありがとう。次は自分が”すごい”大学生になれるよう頑張ります。
物資科学コースの熊田です。
前日大会があったのですが、その会場で自動車技術会が発行している自動車開発についての本を買いました。一般的な車の運動制御について書かれている青本だけで良かったのですが、個人的な興味でEVの方も買いました。青本を少し読んでみたのですが、序盤にあった慣性モーメントとトルクの関係は前期の力学の授業で扱った分野なので、実際に勉強したことが工学で使われているのを実感して、後期のモチベーションが上がっています。挿絵も多く見やすいですがまだ理解できない箇所が多いため、スラスラ読める未来の自分に期待したいです。
大会が終わって人員が多く抜けた今、チームの一員として求められるものが変わってくるので、できるだけガレージに行ってスキルの修練に努めたいと思います。
瀬戸川です。最後の大会はアクセラICV日本記録更新、ファイナル6、非公式ベストラップ賞3位と速さが本物であることを証明できとても嬉しいです。これも一重に保護者の皆様のサポート、スポンサー様の支援、OBOGの皆様、関係者の皆様のご支援のおかけです。本当にありがとうございました。
最後に、OBとして記憶が新しい内に自分の学F人生を振り返ってみたいと思います。
これはよく話す鉄板ネタなのですが、僕が学Fを始めたきっかけはかなりレアなんです(鉄板とかけてるわけではないです…)。コロナ禍の緊急事態宣言と入学のタイミングが重なり、大学に通わず1年を過ごしました。家に引きこもり、ゲームに没頭する日々でした。2年生になると半年くらいは大学に通うので精一杯でした。新しい友人もできましたが友達とどうやってしゃべってたっけ?なレベルに人と話してませんでしたし、そうなるのも当然です。半年くらい経って10月になり、何かサークルとかやってみたいなーと思い始めていた頃、とある英語の授業で堀田と出会いました。実は、2年後期に英語の授業を取るのは少し変な選択なんです。その授業も履修登録していたのは3人のみで、異様な雰囲気の中授業に参加していました。内容は工学的な英語だったので、当然工具とか部品とか出てくるのですが、堀田はもう入部しているので、当然その工具の名前を全て知っているわけです。ただ、当時引きこもりニートだった僕にはそれに驚愕し、何でそんなに知っているのか聞きました。その日始めてフォーミュラの存在を知り、知った瞬間に入部を決意しました。今までの人生でこれだけ即断即決したのは後にも先にもありません。そして、この決断が僕の人生を180度、いやねじれの位置に飛ばしてくれたんじゃないかというくらいに変えてくれました。
入部当時は2021年公式記録会の直前だったため、2022年度活動から参加することになりました。自分を含め同期6人でスタートし、右も左もわからない僕はとりあえず誰かいる日にガレージに行きました。今までゲームをやっていた時間を全てフォーミュラに投下しました。最初はエアロ班として活動を始めましたが、2022年5月にフレーム担当の子が辞めてしまい、僕が引き受けることになりました。人が少なくノウハウもない中何とか製作を進めていきました。7月頃には当時修士2年だったOBの方にも助けに来てもらいました。シェイクダウン3日前にOBの方から「瀬戸川、お前は今日からブレーキ担当だ!」と言われいきなりエア抜きが始まるくらいにはみんな限界でした。それでも何とかレースベースで走れる状態にし、5年振りのエンデュランス完走を含め総合4位を獲得しました。
2023年も相変わらず人も少なくノウハウも乏しい中でスタートしました。そのため、とにかく早くシェイクダウンしてマイレージ稼いで速い車を作ろうと決めました。このタイミングで始めてCADをインストールし、フレーム設計、リアのブレーキキャリパー変更に伴いアップライトを設計しました。この年はチームマネジメントに難航し、自分たちが知識・経験不足なこともあり後輩育成ができませんでした。結果的にオートクロス3位を獲得しチーム初のファイナル6での出走となりましたが、自分たちの力不足を実感しました。
2024年はASEコースへの対応として何をしたらいいか試行錯誤を繰り返しました。当時の1年生を次のメイン代として鍛えるために一緒に製作をし、世代交代に向けて準備の1年でした。実際大会ではアジャストできず、悔しい結果となりました。
そして今年、リベンジするため基本に徹しました。引き継ぎが上手くいっていなかったサスを担当し、ASEコースへの対応を図りました。パワトレの最適化もはまり、個人としては優秀の美を飾れたのかなと思っています。
すごい長くなってしまいましたが、我武者羅に挑戦した4年間でした。FM関東にも参加し、同期が誰もいないから初年度から委員長をやってしまうとか無茶もしてきました。それでもこの1年で体制を大きく変え、関東勢を速くするという目的は達成できたかなと思います。現役のみんなは1つのことを極めるもよし、いろんなことに挑戦するもよし、手を動かしてやってみてください。
僕の体は学Fでできています。スポンサー様の企業でバイトを始め、そこの管理物件に引っ越して一人暮らしをしています。学Fに染まりきってますね笑。このご恩は必ず返します。4年間ありがとう。